日本横断「東海道五十三次」歩き旅を終えて伝えたい事
レビュワーの皆さん 閲覧ありがとうございます。
周作(twitter:DarvishShu)です。
今まで何回かに分けて、歩き旅(京都スタートして東京まで)の記録をお伝えしてきましたが、今回は旅の中で研ぎ澄まされた感 覚や意識について書かせていただきます。
歩き旅は、周りの景観を楽しんだり、地域ならではの物産や観光を楽しむだけではなかったです。
徒歩というスピードだからこそ見えてくるものや感じる事がありました。
なにせ自分と向き合う時間が長いわけです。
1人旅は「自分と向き合う」といった面で非常に効果的なトレーニング方法だと思います。
長時間の歩行で体力もつくし。
今やっている「ブログを書く」という行動にもちょっと似ているのかもしれませんね。
本当の意味で自分に自信をつけるためには、孤独な環境にあえて身をおいて「我」を満たすものから離れることも大事ですし、そこから見えてくるものもあります。
今回は歩き旅の中で見えてきたものや感じた事を『意識編』としてまとめました。
これから徒歩でなくても、旅をしたいと感じている方は特に読んでいただきたいです。
また、読み終わってからで良いのでシェアしていただけると幸いです。
人間は慣れの生き物。疲れはあまり感じなくなっていった
東海道五十三次は総距離495kmなのですが、徒歩コースだと距離にして500kmオーバーになります。
寄り道したり迂回路を歩くため、どうしても長くなります。
そんな長い道のり……はじめの方はかなり足腰が辛かったです。
特にきつかったのが3~4日目辺り。
「昔の人は凄いなー、俺はもうこれ以上は歩き続けられる自信が無い…」と弱気な気持ちで歩いていたものです。
しかし、どんなに厳しい状況でも人間というものは不思議で、体がだんだん慣れていくのです。
そして4日目くらいからぱたりと疲れを感じなくなりました。
▼その時の記録をタイムリーに書いています
確かに体は疲労困憊です。
歩行速度も遅くなり、握力も弱まってきますが、不思議と疲れの感情は通り過ぎていったような感覚になります。
今、レベルが上がったのか?という錯覚に陥ります。
僕が歩き旅で皆さんに感じてもらいたいのはこの境地です。
「ランナーズハイ」というのを聞いた事がありますが、あれに近い感覚なのでしょうか?ちょっと違うかもしれんですね。
とにかく自分の可能性が広がるというか、今まで心の中で「自分には無理なんじゃないか」と感じているブロックが外れていく感覚を得る事ができます。
思考のリミットをはずすという脳科学の勉強も少しかじっていたのですが、この体験で少し分かるような気がしました。
不思議と余計な事を考えなくなる
そして「受け止める」という感覚が分かってくる
体が慣れてきたら、今まで苦しいと感じていた感情が徐々に無くなっていくのです。
そうなったらその「苦しい」という感情のスペースがぽっかり開いてしまうのです。
そういう状態の時って余計な事を考えなくなって、感じた事がスッと入ってくるのです。
花を見たら、素直に美しいという感情を持てたり、綺麗な景色を見たらその景色に無心で見入れたりするのです。
そういう境地にいたら今まで感じなかった感情が芽生えてくるようになるのです。
ちょっと難しくて理解できないかもしれないですが、少し例を言うと…
『自分は今、生かされているという感覚』や『いかに自分がちっぽけな存在で、どうでも良いプライドで意地をはっていたかが分かってくる』等です。
……政治家は「歩きお遍路」やった方がいいなと感じました。
話を戻します。
僕はこの境地の事を「賢者モード」と名づけようと思ったのですが、どうも誤解を生むスラングのようなのでやめておこうと思います。
とにかくこのスッキリモードの時、自分のどうでもいいようなプライドが色々頭の中で相殺されてスッキリしたように感じます。
今、いろんなしがらみや人間関係で悩んでいる方がいたら、この体験を是非伝えて実践して欲しいです。
だって本当に人間って、はたから見てどうでもいいようなプライドをあまりにも持ちすぎているんです。
そこに理屈でなく自分自身の幻想と理想と戦っているだけなのですが、気づかないのです。
しかし、心と体が抵抗をしなくなったら、すぐに気づけます。
あるがままを受け入れやすくなるんですかね。疲れの感情がなくなってきた後は。
逆に考えると、悩んでいる時って、自分の中の何かがすごい抵抗しているから悩むわけです。本当は自分自身に解決策があるのに…。
だから僕は旅から帰ってきて、プライドが綺麗にそぎ落とされた感じになりました。
そしてだいぶ楽になりました。
あの人しょうもないプライドで人生損してる…勿体無いなぁと感じることがよくあります。
もっと周辺を見てみよう。当たり前になってないか?
疲れの感情が無くなってきて、あるがままを受け入れやすくなってきたら周りの視界が広がります
これだけ書くと誤解があると思うんで順を追って書きます。
旅のはじめの方は、体がきつくて周りの景色を楽しむよりも、「キツイ…」という感情に意識が向きすぎるあまりあまり周りが見えてませんでした。
一番苦しい時は、下向いてヨロヨロ歩いていました。
でも慣れてきたら目線が足元から遠方に変わりました。
見るべき所の意識が変わって、心にゆとりが出来たように感じます。
これって日常生活でも当てはまる部分がありませんか?
自分の事ばかりで周りを見ようとしない人は総じて視野が狭くなります。
しかし心にゆとりがある人は、常に広い視点で物事を見ることができます。
当時の自分は生活面でゆとりが無く、どこか視野が狭くなっていたように感じます。でもこの時、「広い視野で物事を見るっていうのはこんな感じなのか~」と思いました。
その感覚を覚えていれば、今自分がどういう位置にいてどんな心理状態なのかが分かります。
旅の中でいろんな感情を体験する事ができました。
だからなのか、旅が終わりに差し掛かったころはやたらと寂しい感情が沸いてきました。
人生はあっという間。…まるで旅をしているように
まぁそんな500km程の歩き旅も、進んでいけばいつかはゴールに到達するわけです。
思い返してみても「あっという間」でした。
人生だって本当に振り返ったらあっという間です。
だから旅を通して、今の人生という旅の中で、無駄な事して時間を浪費する事の勿体無さを感じました。
人生も時間も有限なのです。
「川の流れのよう」という言い方もされてる人生。
でも我々は、さも今が永遠に続くかのように振舞ってしまいます。
未来の不安を解消するために今とても無駄な時間を過ごしたりしています。
年取ってしまったら無駄な時間だって満喫できなくなるかかもしれないのに。
ゴールが近づくにつれ、「これからの時間を大切に使おう」という想いが強くなりました。
歩き旅ではそんな事も気づかせてくれました。
東海道五十三次を歩いているうちに感じるようになった事
他にも小さな気付きが沢山ありました。
ちょっとかいつまんでシェアしたいと思います。
あと、これは誰かの言葉の引用ではないです。僕の言葉として感じた事を書きます。
●不安定を感じるのは暇だということ
その通りで、不安なら前に進みながら対策を練った方が良いです。
歩いていて足腰が辛くても立ち止まっていては一向にゴールに近づきません。
辛くても、前に進む。
その積み重ねが、また新たな展開へ招待してくれます。
●体力があるうちにやりたい事をやっておかないと後で後悔より先に体が動かなくなる
今回の歩き旅、体が慣れてきたとはいえかなり体力を使いました。
年取ってしまったらなかなか出来るものじゃないなとつくづく感じます。
バスや車で行くのと見える景色も感じ方も違う歩き旅。
そんな醍醐味を味わうなら、「今のできない理由」にばかり固執してないでチャレンジしてみる事だと思います。
別に旅でなくても何でもいいです。
後で後悔してほしくないんです。
それにチャレンジすることで、「いつかやりたい…」と思っていたその”つっかえ”が一つ取れるので、感情的に楽になります。
この辺りは、先ほどにも書いた「スッキリモード」になったらよく分かります!
●仕事をしているフリをしている人。実に勿体無い
一日って結構短いです。
すぐに夜になります。
そんな短い24時間(睡眠時間を入れたらその3分の2くらしかないです)を、タスク(作業)をただ何となくこなすような生き方では勿体無いです。
旅をしてて、時間が有限だというのを本当に痛感しました。
所帯を持っている人とかそれぞれの都合はあると思いますが、何となく時間を無駄にしているという感覚を作らないで下さい。
映画見てるほうがマシです。
そして自分がどうしたいかくらい自分で決めよう。
自分が歩きながらだんだん頭がクリアになってきて、そこで素直に感じたことを書いてみたのですがいかがでしたか?
“それ”を感じられなくなるくらい社会の中で自分達は感情を無意識に押し殺しながら生きてきてたんだなと思います。
本来人間って自由な存在なのに、「こうするべき」「こうあるもの」というルールに縛られすぎです。
ドMなら話は別ですが、無意識に誰かの奴隷になろうとする生き方を辞めませんか?
日本人は自由であって、洗脳されて自由でなくなっている気がします。
自由に生きている人をねたましく思う感情があるなら間違いないです。
東海道五十三次のバックナンバー記事 は下記の記事にまとめています。
まだ見てない方は是非ゆっくり見てってください。
旅を始めてみようと考えている方、歩き旅じゃなくてもいいです。
以下の記事はきっと参考になると思います。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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