「何千万曲を持ち歩く」という言葉の裏からみえてくるもの
最近、ポータブルプレイヤーのキャッチコピーやポスターで「□万曲を持ち歩く」「□千万曲をポケットに」というのがありますが見たことある人いませんか?
昔はMDやCDプレイヤーしかなかったけど、今では手軽にデータやクラウドで何千曲も持ち運びできて、聴きたい時に聴ける……そんな便利な社会になった!ってことを書くために今回は記事を書いたたわけじゃないのです。
最近では(最近なのか?)世の中の音楽が全て無料で聞けるサービスも開始されています。
LINE MUSICでしたっけ?
このサービスに対しても共通して感じられる事があります。
それは
曲の価値が暴落した
自分は一応シンガーソングライターです。
今の所、楽曲制作も承っていて細々と活動させていただいています。
そんな自分のようなアーティストのはしくれみたいな人間でも懸念している事として、なんだかすっかり『曲の価値が下がってしまった』ということ。
想いを込めて、歳月と技術を駆使して作り上げた曲も、このキャッチコピーのように「□万曲」の中の一部となってしまうわけです。
アーティストさんの気持ちを察すると、一生懸命作った曲が全ての一部に統合されるのがなんかやりきれないのではないかと感じます。
曲っていうのはそんなに安っぽいものになってしまったのだろうか?
音楽は慈善事業じゃ無いんです。
今では音楽が無料で楽しめるのが当たり前だと思ってる輩もちらほら聞きます。
ミュージシャンは重ねてやりきれんですよね。
昔のTV番組「ウリナリ」「雷波少年」じゃあないんだけど、一つの曲が出来上がるまでの間にどれくらいの人たちの協力や技術、そして挫折、人間ドラマを経てきているのか?
それを思うと、曲という名の作品一つ一つが雑に扱われているような感じがしてなりません。
今、アーティストさんはどんな想いで作曲されているんだろうかと感じます。
時代の流れはありますが、「作品」に対する考え方が希薄になっていると思います。
作品を金(商業的なもの)と結び付けすぎているように感じます。
曲だけでなく、漫画でも映画でも同じ事が言えますし、『労働』に関しても同じです。
身近に音楽を楽しめる場や人口が減って、芸術的な格差ができた
アーティストさんのモチベーションが上がらなくなると、世に良い作品が生まれてきません。
生活できなくなるという問題が起きてくるので、お金を出してくれる方のためだけに作る作品やライブが多くなり、ここで身近な芸術に触れられることへの格差が生まれます。
それに比例するように、都会と田舎ではライブ会場のような施設の数や年間の公演数の差が激しいです。
昔はどこに暮らそうが、CDの普及で沢山の学生が音楽をはじめとした芸術に触れる機会がありました。
それが今ではレコードショップ自体が無くなり、なかなか手軽に音楽を楽しめなくなりました。
本物に触れる機会を!本物が活躍できる社会を!
音楽のような芸術に触れる機会が減ると、アーティストへの憧れを持つ人が少なくなると思うのです。
1990年代は良くも悪くも個性的なアーティストさんが多かったです。
そういう個性のあるというかトゲのある人が少なくなってるように思えてなりません。
もっとリサーチやネットワークを広げたら見つけることができるかもしれません。
ただ、多様化している対価なのか、ここでも作品への価値が雑になってきていると感じます。
CDに何か付加価値を付けて売るというのも流行っていますが、本当にアーティストさんの歌が聴きたくてCDを買うわけじゃないというケースが殆どなので、何の解撤にもなりません。
かえって市場が混乱します。
労働の価値 芽が出ない社会は衰退する
曲の価値が分からなくなり、働いている我々の価値「労働の価値」も下がっています。
労働力はもう、下げるにこしたことないコストみたいになってます。
社員をリストラして生き延びていこうとする今の企業を見れば分かります。
ワーキングプアという層が増えている現代から読み取れるのは、「とにかく労働が金にならなくなってしまった」ということ。
人がいなくても会社がまかなえるようになってきたので、これからますます労働の価値が下がるでしょう。
時代の流れという声もありますが、その波に乗ってアーティスト達の業界もそうはなって欲しくないものです。
どんなに貧しくとも、この先芸術を楽しむ視点は常に持ちたいですね。
音楽っていうのは人生を集約した一つの形・作品です。
感性というのは人によって違うし、そこが良いものです。
どうか新しいアーティストさんの芽が出できやすい社会を。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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